昭和20年の8月

 今から76年前 私が小学校2年生の8月15日に大東亜戦争が終わった。昭和20年、21年、22年の私の記憶にあることを書き残したいと思う。小学2年生の見た、感じたこと、覚えている事で、正式な歴史書には記載されていないことも多いかもしれないし、記憶間違いもあると思う。

 終戦の8月15日の玉音放送疎開先の生駒市石切の散髪屋で聴いたと記憶している。皇居前で土下座して玉音放送を聞いている写真とは大違いである。ただ大人たちは重大な放送があると話していたが、ラジオから流れる音声は雑音が多く聞き取れず、ただ日本が戦争に負けたらしいと話をしているのを聞いた記憶がある。大阪人は淡々と敗戦を受け入れていたようだ。

 8月20日には疎開先から阿倍野区長池町(今の阪和線南田辺駅近く)に帰っていた。大きな池に面し眺望の良い家に住んでいたので、アメリカの艦載機が超低空で偵察飛行をしているのを二階から見た記憶がある。その時なぜかパイロットと目が合った。マッカーサーが8月30日厚木に降り立つ前の偵察だったのかもしれない。

 9月に入ってから戦後の本格的な食糧危機が始まった。戦時中は国家統制令で、食糧も不足がちではあったが飢えないように配給されていた。その枠組みが崩れ、弱肉強食で米の奪い合いになった。私の家でも母親や姉たちが箪笥にあった着物を持って近郊農家に行き米と交換してもらった。当時「買い出し」と言われた。その「買出し列車」も警察の取り締まりが入って米を線路に投げ出して逃げたと聞く。

 10月に入ると家の前の池の周りに、引き上げ軍人やヤクザが掘立て小屋を建てて「闇市」ができた。金さえあれば、ぼた餅や焼酎も買えた。21年になればヤクザや予科練帰りの兵隊たちが仕切り、なんとはなく闇市にも秩序ができたようだ。南田辺の駅前で「演芸大会」や長池の前で「盆踊り」も主催していた。人々も開放感に溢れ乱舞していた。

 昭和22年6月6日(年表で確認)に昭和天皇が大阪に行幸された。大阪府庁玄関にお立ちになった時、私は追手門学院小学校4年生でその現場にいた。私の小学校は旧陸軍偕行社で大手前にあったので日の丸の旗を持って歓迎に行ったと思う。少なくとも階段の上で並んでいた。大衆が府庁の玄関の階段を駆け上がり天皇陛下に向かって殺到した。警備のアメリカ軍のMPがピストルで威嚇射撃をしていたのを覚えている。

 なぜか幼少期のことはアルバムを見ているように鮮明に思い出す。人間の記憶は新しい方から消えていき、子供の時のことが最後に残るらしい。